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Project Itoh 『屍者の帝国』

「まず、わたしの仕事から説明せねばなるまい」
 「必要なのは、何をおいてもまず、屍体だ」
 19世紀のロンドン。
 ヴィクトリア女王の下で繁栄を極めている大英帝国の、ある狭い一室で、わたしは、親友を生き返らせた。
 人間は死ぬと21グラム軽くなる。それは霊素の重さ、つまり、魂の重さ。
 「21グラムの魂を証明して見せろ」
 そう言ってわたしを置いていった彼が今、目の前でゆらゆらと揺れている。
 「おかえり、フライデー」
 
 
 
 しかし、翌日、大英帝国の諜報機関、ウォルシンガム機関に見つかった。屍者を生き返らせる技術は国家機密であり、無許可によるよみがえりは重罪なのだ。
 「取引といこうじゃないか」
 ウォルシンガムを束ねるMが持ちかけてくる。懲役を免除する代わりに、「ヴィクターの手記」を探して来いと言う。ヴィクターの手記には、100年前に唯一魂を持つ屍者を生み出した、ヴィクター・フランケンシュタインの技術が記載されている。
 隣に座るフライデーは、いまだにゆらゆらと揺れている。その瞳には何も映っていない。そこにわたしはいない。
 「わかりました」
 ヴィクターの手記さえあれば、彼の目にわたしが映る日が来るかもしれない。そして、願わくば、再び彼のことばも――――。
 「行こう、フライデー」
 最初の目的地は、アフガニスタンの”屍者の帝国”だ。
 
 
 
 わたくし、初日の初回を、授業を自主休講(さぼりではない。あくまで”自主”休講)してまで観に行ってきました。そして、次の日の午後イチで無理矢理Y君を連れて二度目を、昨日は再び朝イチで観てきた次第であります。
 本作品、とても良い出来です。一年前から楽しみにしていて期待値をこれでもかこれでもかと更新し続けた私が言うのですから本当です(なんの保証にもならない...)。
 原作を読んだという方も、観ておくといいと思いますよ。そして初見さんも(むしろ初見の方が面白いかも。Y氏参考)。何度も宣伝されているし、冒頭でわたくしが書いたあらすじにもある通り、原作では単なる記述係だったフライデーが、映画ではワトソン(あっ、主人公ね)の親友という設定になっています。それに、500ページ以上ある原作を二時間にまとめる上で、大きく物語が再編集されていて、別の物語です。だからといってその物語としての面白さが失われているわけではなく、むしろ映画映え(?)する方向に修正され、さんざん監督たちが言っているように「エンターテイメント」としての楽しさが強調されていると思う。原作を読まれた方は、一度頭を(ペイチェック的に)リセットしてから観るべきではあるかも。とりあえず、声も声優さんオンリーで、俳優が声をあてたときのあのどうしようもなさは一切ないので安心してください(そんな心配はしていない?)。
 
 
 
 それに、なんといっても絵がとてもきれい。闇が支配するロンドンも、さまざまな後ろ暗いこともやってきたおかげで今の繁栄があることを暗示しているようで好きですが、わたくし個人としてはワトソンとバーナビ―がインドを馬車で逃げ回るシーンの後半に映る、丸円筒の建築物が大好きです。馬車が画面手前を左から右に走り、その奥にエキゾチックな(自分の言葉で表現することを断念...)丸円筒の建物がでーんとそびえ立っている。とてもシンプルで、その建物を見せるためにそのカットをわざわざ書いたのではないかと勘繰りたくなるほど、丸円筒が目の前に立派にででーんと現れます。また、あまり書くとネタバレなんでほんの少しほのめかす程度にしとこうと思いますが、アフガニスタンの洞窟での最後のシーンの、物言わぬ寂しさと虚しさと悲しさ。そして、物語の佳境、チャールズバベッジという超大型演算処理装置でのアニメでは(それ以外でも?)あまり観られない、ズームアウトして遠近感を感じさせる演出には痺れますな。思わず「カッコイイ!」とつぶやくところだった。
 
 



 
 話は大変変わるけれど、現在、ここぞとばかりにたくさんの伊藤計劃に関する特集が組まれている。早川文庫『伊藤計劃トリビュート』、河出文庫『NOVA+ 屍者たちの帝国』、今月出た『ダ・ヴィンチ』と『シアターカルチャーマガジン』ではプロジェクトイトウ三作品のインタビュー記事が載っています。
 伊藤計劃はもういない。6年前の3月20日に亡くなった。ゆえに、現在のこの「伊藤計劃」現象をあまりよく思わない方もいる。
 伊藤計劃が、SF業界、早川書房河出文庫、アニメなどの食い物にされている、なんていうブログを見かけた。まあ、確かにそうである。
 でも、もし伊藤計劃が生きていたなら、今まで売れていなかったアーティストが急に売れ出したときのように「伊藤計劃原理主義者」たちは伊藤計劃を非難したのではないか(もしくは伊藤計劃離れになったのではないか)。その矛先が、今回は本人の不在ゆえに、その周囲へと飛び火したに過ぎないとぼくは思う。
 伊藤計劃はブラックユーモアの大好きな人だ。
 伊藤計劃は病院のベッドでかわいい看護師に囲まれて「ハーモニー」なんていう、自分も恩恵を受けているはずの最先端医療のその先にある、気持ち悪い結末を書いた。
 伊藤計劃は自分の命が短いことを知りながら、死んだ者を利用する世界、『屍者の帝国』の構想を練った。
 そして、伊藤計劃のブログを読めばわかるけれど、彼は自分の周囲に漂う死の予兆を、ユーモアに包んだ(もちろん、どうしようもなく不安になって書いた文章もある)。
 伊藤計劃は死にたくないと言っていた。でも、死のにおいが嫌でも自分の周囲にあることを自覚して(せざるをえなくて)、それなら多くの人の記憶に残したい、できるだけたくさんの物語の一部になりたい、そう思っていたのだとぼくは考える。
 最後に伊藤計劃の『人という物語』から一節を引用する。
 
 
 
 人間は物語として他者に宿ることができる。人は物語として誰かの身体の中で生き続けることができる。そして、様々に語られることで、他の多くの人間を形作るフィクションの一部になることができる。
 〈中略〉
 そして、わたしは作家として、いまここに記しているように私自身のフィクションを語る。この物語があなたの記憶に残るかどうかわからない。しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を書いている。
 これがわたし。
 これがわたしというフィクション。
 わたしはあなたの身体に宿りたい。
 わたしはあなたの口によって更に他者に語り継がれたい。
 (伊藤計劃『人という物語』)
 
 
 伊藤計劃は今、してやったり顔で萌え萌えしていることだろう(死後という世界があるのなら、ね)