沼正三『家畜人ヤプー 第1巻』幻冬舎アウトロー文庫、1999

 2000年後の世界、それは日本人が、家畜、になっている世界。

 

 いや、それは少し不正確だろう。より正確には、黄色人がすべて家畜とみなされ、しかし、黄色人の中では日本人のみが生き残っている(日本人以外は絶滅している)が故に、日本人のみが家畜になっている世界、と言った方がいい。

 

 その主人は、白人。白人=人間。黒人=半人間。そして、黄色人(日本人)=家畜。

 

 その用途は、現代(2016年)の他の家畜をすべて足し合わせても足りないほどに豊富。

 

 私の最も印象に残ったものを挙げると、たとえば「セッチン」。これは、本書では「肉便器」のフリガナに当てられている。それはもちろん「トイレ」を意味する。見た目に関しては人間と呼ぶにはあまりにも異形の形をしている。頭は逆三角形で手は肘から先はない。足も膝から下は切り落とされている。しかし、それは、確かに人間。人間が「いーてぃんぐ」したり、「どりんきんぐ」したりする。何を?それは私があまり思い出したくないので、ご想像にお任せする。このほかにも、食用になるヤプー(言い忘れていたが、2000年後の世界では日本人は「ヤプー」と呼ばれている)や、昔のコロッセオの剣闘士のようなヤプー、自動椅子の部品となるヤプーなど、著者の想像力には恐れ入る。このように、2000年後の世界はヤプーなしではほとんど成り立たないような世界である。そういう意味では、「ヤプーによる支配」とも言えなくはない。

 

 ここでなぜ、数ある用途からわざわざ「セッチン」を例に挙げたのか、について理由を述べたい。それは、著者がこの設定にとてつもないページを割いているからだ。

 

 目次を見てみよう。最初に「セッチン」に触れるのは「第六章 便所のない世界」。見る通り、そこではセッチンのシステムと歴史を説き、これでもかこれでもか、と脳にすり込んでくる。私はここでちょっと気分が悪くなった。一時期ご飯がのどを通らなくなるほどであった。というか、「食べる」「飲む」という行為そのものに対して躊躇してしまった。そして、その次の章「第七章 第一の経験」では、現代人(と言っても、今から60年ほど前の女性なのだが)がセッチンを使用する場面が描かれる。それからもことあるごとに、ちょこっとずつだが出てくるのである。忘れたころにふらりと登場するところに著者の性格の悪さが出ている。総ページの約2割を占めるその秀逸の設定に、あなたも心奪われるだろう。

 

 ここまで書いてきて、私は少しもストーリーには触れていない。本書は一応小説ではあるのだが、第1巻に限って言えばストーリーはおまけに過ぎない。この本は「設定」を楽しむものである。著者のユーモラスで悪質な冗談を、思いっきり笑うための本である。それをまるで証明するかのように、第1巻は全部で350頁あるにもかかわらず、始まってから24時間経っていない。しかも全11章それぞれに入っている3つから5つの節のうち、ストーリーが進むのは1つか2つの節のみ。なんとも遅々とした歩みである。だから、本書を読んで「共感」や「楽しさ」を期待するのは無理がある(マゾヒズムをかなり称揚しているので、その点で「共感」や「楽しさ」を感じるかもしれないが)。また、日本人が家畜として扱われていることに対して嫌悪感や憤りを感じる可能性も否めないが、それは本書の目的とするところではない。

  この本はそんな倫理も道徳も何もかもを超えて、すべてをただただ笑ってしまおうとする、ブラックジョークの塊なのである。