読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

柴田勝家「クロニスタ 戦争人類学者」、ハヤカワ文庫JA、2016

「ぼくは、軍人なんだ。そして、学者でもあるんだよ」

南米のとある小さな村に行ったとき、一人の男の子と出会った。その子だけが他の子と違って、民族衣装を着ていた。

 「いや、ぼくは人を殺すために軍人になったんじゃないんだ。人を救うために、平和をもたらすために軍人になったんだ、わかるかな…」

 男の子は首を傾げたままぼくを見つめていた。ぼくが殺すことになるその子の目は、とても澄んだ黒い目をしていた。

 彼らは「自己相」を持っていなかった。それは、共和制アメリカにとって当たり前の、「認識の共有」を行っていなかったということ。共和制アメリカにとって彼らは「異民族」で、理解できない他者だったのだ。

 だから、ぼくは後悔していない。そもそもテロ行為をしてきたのはあの子の方だし、ぼくの行為は非難されるような行為ではないはずだ。

 そう思う、そう思うのだけれど、ぼくはあの事件をいつまでも覚えておきたいと思う。

 時折、あの男の子のとても不思議そうにこちらを見てきたときの顔と、銃を取り出しながらこちらに近づいてきた虚ろな顔が、ダブる。それはとても怖くて、でも同時に絶対に忘れてはいけない気がする。

 だからぼくは、再復(リジューム)を受けない。そんなことをしてしまえば、ぼくだけの経験がぼくから離れていくから。

 でも、そうしたから、「再復(リジューム)を受けない」ということを選んだから、ぼくの後ろに無数の死体が積み重なったのかもしれない。フランも、デレクも、人理部隊のみんなもぼくがその選択をしていなかったならば、今も生きていたのだろう。

 そうなんだろうな、きっと。

 ぼくは、道端に並べられたガラクタを物珍しそうに眺めているヒユラミールに声を掛けた。

 「そろそろ行こうか。軍がもうすぐ来るかもしれない」

 ヒユラミールは名残惜しそうにガラクタを一瞥すると、トコトコとぼくの後ろについて来た。

 きっと、すべてぼくのせいなんだろうけれど、今は彼女さえいれば何も問題はない。

 

 

 まずは伊藤計劃から始めようと思う。

 

 なぜか。べつに私が好きだからこの機に乗じてというわけではない。その理由は、本書が伊藤計劃「ハーモニー」に対する一つの「答え」もしくは「応え」だと思うからだ。ゆえに、伊藤の作品についてあらかじめ触れておく必要があるだろう(嬉々)。

 

 伊藤の、そのほぼすべての作品に通じるテーマがある。それは、「意識」だ。もっと言えば、「『ワタシ』という意識は何なのか」という問題意識である。そして、その答えについて彼が下した結論は、「人類が進化の過程で手に入れた、単なる『機能』に過ぎない」というものである。衝撃的、びっくりたまげた、というやつである。以下、伊藤がそのような主張を持つようになったきっかけを二つ挙げたいと思う。

 

 まず、伊藤のすべての作品の中で特に意識について扱っているものに、「人という物語」という名のエッセイがある。その中で彼は「ベンジャミン・リベットの実験」を持ってきて、私たちが考えている「意識」というものは、「環境に適応するための様々な機能のパッチワーク(だ)」(伊藤 2015a、p.280)と言い切る。生物はそのときどきの環境に適応するために自らの機能を変化させていく。その変化する機能の内の一つに「意識」も入るというである。つまり、私たちの「魂」は、人類が自然への適応のために「進化」していく中で獲得されたものだ、と言うわけだ。

 

 そして、次に「意識受動仮説」について伊藤は述べる。この仮説は、「ボールを投げる」、「バットを振る」という行為の後に、「ワタシがそうするように決意した」と思い込むことこそが「意識」である、というもの。すなわち、「最後の最後になって、意識は『自分が決意し、行動した』と脳によって思い込まされる」(伊藤 2015a、p.284)ということである。

 

 以上のことから、伊藤は「意識」を人間に備わっている他の様々な機能と全く違うものとして神聖視しておらず、「意識」も人間が「進化」の過程で手に入れてきたものに過ぎない、だから「意識」もこれからの人間の歴史の中で淘汰されることがあるだろうと考えていたと思われる。

 

 これまでのところで一応、伊藤の考え方について一定の理解を得られたことと思う。

 次に「ハーモニー」について触れていく。

 

 「ハーモニー」では、その過程自体は省略するが、最終的に人類の意識がない世界が誕生する。そして、伊藤はその世界を「買い物、食事、娯楽、すべてが自明に選び取られる」(伊藤 2014、p.264)世界と表現している。

 

 ここで、「自明に選び取られる」ということがどういうことかを説明しておこう。

 伊藤は、「ハーモニー」の中で「意識」について具体的に次のようなたとえを用いて説明している。彼は、「意識」とは「会議」のようなものだと言った。私たちが通常考える「意識」とは一つのカタマリである(と思う)。しかし、実際には様々な欲求同士が自己主張しあう会議全体のことを「意識」と呼ぶと伊藤は言う。昨年放映された、ディズニーの『インサイド・ヘッド』なんかを想像してくれればいいと思う(私は観たことないけど、頭の中で数人の「自分」のようなものがいてそれぞれに意見を言い合う、その状況は同じものだろう)。この「会議」を開く目的は、互いに異なる意見もしくは欲求を調整することにある。

 それでは、そのような「意識」がなくなるとは、どういうことを意味するのか。「意識」とは「会議」による意見調整だと、前述した。だから、「意識」の喪失は、意見調整の必要性がなくなったことを意味している。そして、意見調整がなくなる場合というのは、すべての会議参加者が同じ意見を言い、少しでも異なる意見を全く言わなくなる状況を指す。ゆえに「意識」のない人とは、「会議」なしでそれぞれの意見が調整されていると言える。欲求の中から何か一つを「選び取る」必要も、悩む必要もなく、ただただそのときどきの欲求を当然のものとして生きていくということなのだ。

 

 ここまでのことを少しまとめておこう。伊藤の考え方の根源にあるのは、「『意識』とは、ただの『進化』の産物に過ぎない」ということであった。そして、その考えから、人類の進化の過程の中での「意識」の消失という考えが生まれ、さらに、もし「意識」が消滅したならその人類は「自明のものを自明のものとして選び取る(「選び取る」という語句も少し誤解を生むが仕方ない)」という結論に至った、というのが、伊藤の「ハーモニー」での一応の結末である。「ハーモニー」の中では具体的に描かれていないが、「意識」を喪失した後も、とりあえず人類は生存している。

 

 さて、ついに本書「クロニスタ~」の内容に触れるわけだが、ここはかなり手短に述べるにとどまるだろう。というのも、「クロニスタ~」も「意識」を主たるテーマに据えており、さらに、その前提となる知識もこれまでに私が述べてきた伊藤の考えとほとんど同じだからである。しかし、一つだけ異なる点がある。それについて述べて、この長い書評を終えたい。

 

 伊藤と異なる唯一の点、それは、――これこそが「ハーモニー」に対する「答え(応え)」だと私は思っているが――「意識」を喪失した人類はその果てに自殺を試みるという点である。

 伊藤はかつて、あるインタビューの中でこんなことを言っていた。

 

 

人間が持っている感情とか思考とかってものが、生物としての進化の産物でしかないっていう認識までいったところから見えてくるもの。その次の言葉があるのかどうか、っていうあたりを探っている。で、前回(=「虐殺器官」)と今回(=「ハーモニー」)はとりあえず「なかった」っていう結論なんですけども(笑)。

(伊藤 2015b、p.299 括弧内引用者)

 

 

 私は、ここで言う「次の言葉」にあたるものが、「クロニスタ~」における、「意識」の消失の果ての自殺なのだろうと思っている。

 しかし同時に、この結末には無理があると考えている。

 本書で柴田は、私たち「人類」は、未来が未知で不安で想像できるからこそ、つまり意識があるからこそ、生存できているのだと述べている。一方、「意識」のない「人類」は、すべての行為を自明のものとして行動するので、そこには未知はなく、相手のことまで予測をつけて行動できているそうだ。それゆえに、先の先まで見通すことができ、その結果、彼らは結末まで知ってしまうがゆえに、積極的に死を選ぶのだと言う。

 だが、私はここに矛盾が潜んでいると思う。「意識」があるということは想像できるということを意味すると言う。しかし、先ほどの「意識のない状態」では「意識」がないにもかかわらず、相手の行動を予測するときに想像が働いてしまっているのではないか。相手の行動も、それに対する自分を含めたすべての行為も自明で当然のものとして存在しうる場合、それは想像でも厳密に言えば予測でもなく、ただそれは事実としてそこにあるのだ、と言うこともできるかもしれない。しかし、そう仮定したのだとしても、それから「自死」を選ぶという必然性はないのではないか。結末が分かりきっていたとしても、どんなに悲惨な結末が待っていようとも、そこに「意識」がないのであるならば、彼/彼女はその事実を事実として実行していくのみであろう。さらに「いや、結末がすべて分かって自死することはそれすらも事実として存在するのだ」と主張するのは、人間が動物としてその種の保存を最大の目的としている点を無視していることから論外だと考える。

 

 なんか本書をこき下ろしてしまった感が否めない。が、私はべつに本書が嫌いなわけではないので悪しからず。「自己相」を含めた世界観や「人類学」を取り入れたそのアイデアにとてもワクワクしましたです。できればそれらの点についても触れたかったほどだが、もうすでに長文と化してしまったのでそれはまた別の機会にでも。

 

 参考文献