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柴田勝家「クロニスタ 戦争人類学者」、ハヤカワ文庫JA、2016

「ぼくは、軍人なんだ。そして、学者でもあるんだよ」

南米のとある小さな村に行ったとき、一人の男の子と出会った。その子だけが他の子と違って、民族衣装を着ていた。

 「いや、ぼくは人を殺すために軍人になったんじゃないんだ。人を救うために、平和をもたらすために軍人になったんだ、わかるかな…」

 男の子は首を傾げたままぼくを見つめていた。ぼくが殺すことになるその子の目は、とても澄んだ黒い目をしていた。

 彼らは「自己相」を持っていなかった。それは、共和制アメリカにとって当たり前の、「認識の共有」を行っていなかったということ。共和制アメリカにとって彼らは「異民族」で、理解できない他者だったのだ。

 だから、ぼくは後悔していない。そもそもテロ行為をしてきたのはあの子の方だし、ぼくの行為は非難されるような行為ではないはずだ。

 そう思う、そう思うのだけれど、ぼくはあの事件をいつまでも覚えておきたいと思う。

 時折、あの男の子のとても不思議そうにこちらを見てきたときの顔と、銃を取り出しながらこちらに近づいてきた虚ろな顔が、ダブる。それはとても怖くて、でも同時に絶対に忘れてはいけない気がする。

 だからぼくは、再復(リジューム)を受けない。そんなことをしてしまえば、ぼくだけの経験がぼくから離れていくから。

 でも、そうしたから、「再復(リジューム)を受けない」ということを選んだから、ぼくの後ろに無数の死体が積み重なったのかもしれない。フランも、デレクも、人理部隊のみんなもぼくがその選択をしていなかったならば、今も生きていたのだろう。

 そうなんだろうな、きっと。

 ぼくは、道端に並べられたガラクタを物珍しそうに眺めているヒユラミールに声を掛けた。

 「そろそろ行こうか。軍がもうすぐ来るかもしれない」

 ヒユラミールは名残惜しそうにガラクタを一瞥すると、トコトコとぼくの後ろについて来た。

 きっと、すべてぼくのせいなんだろうけれど、今は彼女さえいれば何も問題はない。

 

 

 まずは伊藤計劃から始めようと思う。

 

 なぜか。べつに私が好きだからこの機に乗じてというわけではない。その理由は、本書が伊藤計劃「ハーモニー」に対する一つの「答え」もしくは「応え」だと思うからだ。ゆえに、伊藤の作品についてあらかじめ触れておく必要があるだろう(嬉々)。

 

 伊藤の、そのほぼすべての作品に通じるテーマがある。それは、「意識」だ。もっと言えば、「『ワタシ』という意識は何なのか」という問題意識である。そして、その答えについて彼が下した結論は、「人類が進化の過程で手に入れた、単なる『機能』に過ぎない」というものである。衝撃的、びっくりたまげた、というやつである。以下、伊藤がそのような主張を持つようになったきっかけを二つ挙げたいと思う。

 

 まず、伊藤のすべての作品の中で特に意識について扱っているものに、「人という物語」という名のエッセイがある。その中で彼は「ベンジャミン・リベットの実験」を持ってきて、私たちが考えている「意識」というものは、「環境に適応するための様々な機能のパッチワーク(だ)」(伊藤 2015a、p.280)と言い切る。生物はそのときどきの環境に適応するために自らの機能を変化させていく。その変化する機能の内の一つに「意識」も入るというである。つまり、私たちの「魂」は、人類が自然への適応のために「進化」していく中で獲得されたものだ、と言うわけだ。

 

 そして、次に「意識受動仮説」について伊藤は述べる。この仮説は、「ボールを投げる」、「バットを振る」という行為の後に、「ワタシがそうするように決意した」と思い込むことこそが「意識」である、というもの。すなわち、「最後の最後になって、意識は『自分が決意し、行動した』と脳によって思い込まされる」(伊藤 2015a、p.284)ということである。

 

 以上のことから、伊藤は「意識」を人間に備わっている他の様々な機能と全く違うものとして神聖視しておらず、「意識」も人間が「進化」の過程で手に入れてきたものに過ぎない、だから「意識」もこれからの人間の歴史の中で淘汰されることがあるだろうと考えていたと思われる。

 

 これまでのところで一応、伊藤の考え方について一定の理解を得られたことと思う。

 次に「ハーモニー」について触れていく。

 

 「ハーモニー」では、その過程自体は省略するが、最終的に人類の意識がない世界が誕生する。そして、伊藤はその世界を「買い物、食事、娯楽、すべてが自明に選び取られる」(伊藤 2014、p.264)世界と表現している。

 

 ここで、「自明に選び取られる」ということがどういうことかを説明しておこう。

 伊藤は、「ハーモニー」の中で「意識」について具体的に次のようなたとえを用いて説明している。彼は、「意識」とは「会議」のようなものだと言った。私たちが通常考える「意識」とは一つのカタマリである(と思う)。しかし、実際には様々な欲求同士が自己主張しあう会議全体のことを「意識」と呼ぶと伊藤は言う。昨年放映された、ディズニーの『インサイド・ヘッド』なんかを想像してくれればいいと思う(私は観たことないけど、頭の中で数人の「自分」のようなものがいてそれぞれに意見を言い合う、その状況は同じものだろう)。この「会議」を開く目的は、互いに異なる意見もしくは欲求を調整することにある。

 それでは、そのような「意識」がなくなるとは、どういうことを意味するのか。「意識」とは「会議」による意見調整だと、前述した。だから、「意識」の喪失は、意見調整の必要性がなくなったことを意味している。そして、意見調整がなくなる場合というのは、すべての会議参加者が同じ意見を言い、少しでも異なる意見を全く言わなくなる状況を指す。ゆえに「意識」のない人とは、「会議」なしでそれぞれの意見が調整されていると言える。欲求の中から何か一つを「選び取る」必要も、悩む必要もなく、ただただそのときどきの欲求を当然のものとして生きていくということなのだ。

 

 ここまでのことを少しまとめておこう。伊藤の考え方の根源にあるのは、「『意識』とは、ただの『進化』の産物に過ぎない」ということであった。そして、その考えから、人類の進化の過程の中での「意識」の消失という考えが生まれ、さらに、もし「意識」が消滅したならその人類は「自明のものを自明のものとして選び取る(「選び取る」という語句も少し誤解を生むが仕方ない)」という結論に至った、というのが、伊藤の「ハーモニー」での一応の結末である。「ハーモニー」の中では具体的に描かれていないが、「意識」を喪失した後も、とりあえず人類は生存している。

 

 さて、ついに本書「クロニスタ~」の内容に触れるわけだが、ここはかなり手短に述べるにとどまるだろう。というのも、「クロニスタ~」も「意識」を主たるテーマに据えており、さらに、その前提となる知識もこれまでに私が述べてきた伊藤の考えとほとんど同じだからである。しかし、一つだけ異なる点がある。それについて述べて、この長い書評を終えたい。

 

 伊藤と異なる唯一の点、それは、――これこそが「ハーモニー」に対する「答え(応え)」だと私は思っているが――「意識」を喪失した人類はその果てに自殺を試みるという点である。

 伊藤はかつて、あるインタビューの中でこんなことを言っていた。

 

 

人間が持っている感情とか思考とかってものが、生物としての進化の産物でしかないっていう認識までいったところから見えてくるもの。その次の言葉があるのかどうか、っていうあたりを探っている。で、前回(=「虐殺器官」)と今回(=「ハーモニー」)はとりあえず「なかった」っていう結論なんですけども(笑)。

(伊藤 2015b、p.299 括弧内引用者)

 

 

 私は、ここで言う「次の言葉」にあたるものが、「クロニスタ~」における、「意識」の消失の果ての自殺なのだろうと思っている。

 しかし同時に、この結末には無理があると考えている。

 本書で柴田は、私たち「人類」は、未来が未知で不安で想像できるからこそ、つまり意識があるからこそ、生存できているのだと述べている。一方、「意識」のない「人類」は、すべての行為を自明のものとして行動するので、そこには未知はなく、相手のことまで予測をつけて行動できているそうだ。それゆえに、先の先まで見通すことができ、その結果、彼らは結末まで知ってしまうがゆえに、積極的に死を選ぶのだと言う。

 だが、私はここに矛盾が潜んでいると思う。「意識」があるということは想像できるということを意味すると言う。しかし、先ほどの「意識のない状態」では「意識」がないにもかかわらず、相手の行動を予測するときに想像が働いてしまっているのではないか。相手の行動も、それに対する自分を含めたすべての行為も自明で当然のものとして存在しうる場合、それは想像でも厳密に言えば予測でもなく、ただそれは事実としてそこにあるのだ、と言うこともできるかもしれない。しかし、そう仮定したのだとしても、それから「自死」を選ぶという必然性はないのではないか。結末が分かりきっていたとしても、どんなに悲惨な結末が待っていようとも、そこに「意識」がないのであるならば、彼/彼女はその事実を事実として実行していくのみであろう。さらに「いや、結末がすべて分かって自死することはそれすらも事実として存在するのだ」と主張するのは、人間が動物としてその種の保存を最大の目的としている点を無視していることから論外だと考える。

 

 なんか本書をこき下ろしてしまった感が否めない。が、私はべつに本書が嫌いなわけではないので悪しからず。「自己相」を含めた世界観や「人類学」を取り入れたそのアイデアにとてもワクワクしましたです。できればそれらの点についても触れたかったほどだが、もうすでに長文と化してしまったのでそれはまた別の機会にでも。

 

 参考文献 

沼正三『家畜人ヤプー 第1巻』幻冬舎アウトロー文庫、1999

 2000年後の世界、それは日本人が、家畜、になっている世界。

 

 いや、それは少し不正確だろう。より正確には、黄色人がすべて家畜とみなされ、しかし、黄色人の中では日本人のみが生き残っている(日本人以外は絶滅している)が故に、日本人のみが家畜になっている世界、と言った方がいい。

 

 その主人は、白人。白人=人間。黒人=半人間。そして、黄色人(日本人)=家畜。

 

 その用途は、現代(2016年)の他の家畜をすべて足し合わせても足りないほどに豊富。

 

 私の最も印象に残ったものを挙げると、たとえば「セッチン」。これは、本書では「肉便器」のフリガナに当てられている。それはもちろん「トイレ」を意味する。見た目に関しては人間と呼ぶにはあまりにも異形の形をしている。頭は逆三角形で手は肘から先はない。足も膝から下は切り落とされている。しかし、それは、確かに人間。人間が「いーてぃんぐ」したり、「どりんきんぐ」したりする。何を?それは私があまり思い出したくないので、ご想像にお任せする。このほかにも、食用になるヤプー(言い忘れていたが、2000年後の世界では日本人は「ヤプー」と呼ばれている)や、昔のコロッセオの剣闘士のようなヤプー、自動椅子の部品となるヤプーなど、著者の想像力には恐れ入る。このように、2000年後の世界はヤプーなしではほとんど成り立たないような世界である。そういう意味では、「ヤプーによる支配」とも言えなくはない。

 

 ここでなぜ、数ある用途からわざわざ「セッチン」を例に挙げたのか、について理由を述べたい。それは、著者がこの設定にとてつもないページを割いているからだ。

 

 目次を見てみよう。最初に「セッチン」に触れるのは「第六章 便所のない世界」。見る通り、そこではセッチンのシステムと歴史を説き、これでもかこれでもか、と脳にすり込んでくる。私はここでちょっと気分が悪くなった。一時期ご飯がのどを通らなくなるほどであった。というか、「食べる」「飲む」という行為そのものに対して躊躇してしまった。そして、その次の章「第七章 第一の経験」では、現代人(と言っても、今から60年ほど前の女性なのだが)がセッチンを使用する場面が描かれる。それからもことあるごとに、ちょこっとずつだが出てくるのである。忘れたころにふらりと登場するところに著者の性格の悪さが出ている。総ページの約2割を占めるその秀逸の設定に、あなたも心奪われるだろう。

 

 ここまで書いてきて、私は少しもストーリーには触れていない。本書は一応小説ではあるのだが、第1巻に限って言えばストーリーはおまけに過ぎない。この本は「設定」を楽しむものである。著者のユーモラスで悪質な冗談を、思いっきり笑うための本である。それをまるで証明するかのように、第1巻は全部で350頁あるにもかかわらず、始まってから24時間経っていない。しかも全11章それぞれに入っている3つから5つの節のうち、ストーリーが進むのは1つか2つの節のみ。なんとも遅々とした歩みである。だから、本書を読んで「共感」や「楽しさ」を期待するのは無理がある(マゾヒズムをかなり称揚しているので、その点で「共感」や「楽しさ」を感じるかもしれないが)。また、日本人が家畜として扱われていることに対して嫌悪感や憤りを感じる可能性も否めないが、それは本書の目的とするところではない。

  この本はそんな倫理も道徳も何もかもを超えて、すべてをただただ笑ってしまおうとする、ブラックジョークの塊なのである。

Project Itoh 『屍者の帝国』

「まず、わたしの仕事から説明せねばなるまい」
 「必要なのは、何をおいてもまず、屍体だ」
 19世紀のロンドン。
 ヴィクトリア女王の下で繁栄を極めている大英帝国の、ある狭い一室で、わたしは、親友を生き返らせた。
 人間は死ぬと21グラム軽くなる。それは霊素の重さ、つまり、魂の重さ。
 「21グラムの魂を証明して見せろ」
 そう言ってわたしを置いていった彼が今、目の前でゆらゆらと揺れている。
 「おかえり、フライデー」
 
 
 
 しかし、翌日、大英帝国の諜報機関、ウォルシンガム機関に見つかった。屍者を生き返らせる技術は国家機密であり、無許可によるよみがえりは重罪なのだ。
 「取引といこうじゃないか」
 ウォルシンガムを束ねるMが持ちかけてくる。懲役を免除する代わりに、「ヴィクターの手記」を探して来いと言う。ヴィクターの手記には、100年前に唯一魂を持つ屍者を生み出した、ヴィクター・フランケンシュタインの技術が記載されている。
 隣に座るフライデーは、いまだにゆらゆらと揺れている。その瞳には何も映っていない。そこにわたしはいない。
 「わかりました」
 ヴィクターの手記さえあれば、彼の目にわたしが映る日が来るかもしれない。そして、願わくば、再び彼のことばも――――。
 「行こう、フライデー」
 最初の目的地は、アフガニスタンの”屍者の帝国”だ。
 
 
 
 わたくし、初日の初回を、授業を自主休講(さぼりではない。あくまで”自主”休講)してまで観に行ってきました。そして、次の日の午後イチで無理矢理Y君を連れて二度目を、昨日は再び朝イチで観てきた次第であります。
 本作品、とても良い出来です。一年前から楽しみにしていて期待値をこれでもかこれでもかと更新し続けた私が言うのですから本当です(なんの保証にもならない...)。
 原作を読んだという方も、観ておくといいと思いますよ。そして初見さんも(むしろ初見の方が面白いかも。Y氏参考)。何度も宣伝されているし、冒頭でわたくしが書いたあらすじにもある通り、原作では単なる記述係だったフライデーが、映画ではワトソン(あっ、主人公ね)の親友という設定になっています。それに、500ページ以上ある原作を二時間にまとめる上で、大きく物語が再編集されていて、別の物語です。だからといってその物語としての面白さが失われているわけではなく、むしろ映画映え(?)する方向に修正され、さんざん監督たちが言っているように「エンターテイメント」としての楽しさが強調されていると思う。原作を読まれた方は、一度頭を(ペイチェック的に)リセットしてから観るべきではあるかも。とりあえず、声も声優さんオンリーで、俳優が声をあてたときのあのどうしようもなさは一切ないので安心してください(そんな心配はしていない?)。
 
 
 
 それに、なんといっても絵がとてもきれい。闇が支配するロンドンも、さまざまな後ろ暗いこともやってきたおかげで今の繁栄があることを暗示しているようで好きですが、わたくし個人としてはワトソンとバーナビ―がインドを馬車で逃げ回るシーンの後半に映る、丸円筒の建築物が大好きです。馬車が画面手前を左から右に走り、その奥にエキゾチックな(自分の言葉で表現することを断念...)丸円筒の建物がでーんとそびえ立っている。とてもシンプルで、その建物を見せるためにそのカットをわざわざ書いたのではないかと勘繰りたくなるほど、丸円筒が目の前に立派にででーんと現れます。また、あまり書くとネタバレなんでほんの少しほのめかす程度にしとこうと思いますが、アフガニスタンの洞窟での最後のシーンの、物言わぬ寂しさと虚しさと悲しさ。そして、物語の佳境、チャールズバベッジという超大型演算処理装置でのアニメでは(それ以外でも?)あまり観られない、ズームアウトして遠近感を感じさせる演出には痺れますな。思わず「カッコイイ!」とつぶやくところだった。
 
 



 
 話は大変変わるけれど、現在、ここぞとばかりにたくさんの伊藤計劃に関する特集が組まれている。早川文庫『伊藤計劃トリビュート』、河出文庫『NOVA+ 屍者たちの帝国』、今月出た『ダ・ヴィンチ』と『シアターカルチャーマガジン』ではプロジェクトイトウ三作品のインタビュー記事が載っています。
 伊藤計劃はもういない。6年前の3月20日に亡くなった。ゆえに、現在のこの「伊藤計劃」現象をあまりよく思わない方もいる。
 伊藤計劃が、SF業界、早川書房河出文庫、アニメなどの食い物にされている、なんていうブログを見かけた。まあ、確かにそうである。
 でも、もし伊藤計劃が生きていたなら、今まで売れていなかったアーティストが急に売れ出したときのように「伊藤計劃原理主義者」たちは伊藤計劃を非難したのではないか(もしくは伊藤計劃離れになったのではないか)。その矛先が、今回は本人の不在ゆえに、その周囲へと飛び火したに過ぎないとぼくは思う。
 伊藤計劃はブラックユーモアの大好きな人だ。
 伊藤計劃は病院のベッドでかわいい看護師に囲まれて「ハーモニー」なんていう、自分も恩恵を受けているはずの最先端医療のその先にある、気持ち悪い結末を書いた。
 伊藤計劃は自分の命が短いことを知りながら、死んだ者を利用する世界、『屍者の帝国』の構想を練った。
 そして、伊藤計劃のブログを読めばわかるけれど、彼は自分の周囲に漂う死の予兆を、ユーモアに包んだ(もちろん、どうしようもなく不安になって書いた文章もある)。
 伊藤計劃は死にたくないと言っていた。でも、死のにおいが嫌でも自分の周囲にあることを自覚して(せざるをえなくて)、それなら多くの人の記憶に残したい、できるだけたくさんの物語の一部になりたい、そう思っていたのだとぼくは考える。
 最後に伊藤計劃の『人という物語』から一節を引用する。
 
 
 
 人間は物語として他者に宿ることができる。人は物語として誰かの身体の中で生き続けることができる。そして、様々に語られることで、他の多くの人間を形作るフィクションの一部になることができる。
 〈中略〉
 そして、わたしは作家として、いまここに記しているように私自身のフィクションを語る。この物語があなたの記憶に残るかどうかわからない。しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を書いている。
 これがわたし。
 これがわたしというフィクション。
 わたしはあなたの身体に宿りたい。
 わたしはあなたの口によって更に他者に語り継がれたい。
 (伊藤計劃『人という物語』)
 
 
 伊藤計劃は今、してやったり顔で萌え萌えしていることだろう(死後という世界があるのなら、ね)

伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』(河出文庫)

 ぼく、という意識。
 あなた、という意識。

 それはいったい何であろうか。
 それは現実なのか、それとも夢なのか。
 いや、そもそもとして現実とはいったい何なのか。

 ぼくは世界から遮断された狭いベッドの上で、一人たたずむ。

 と、夜、就寝前の読書をしていたら、頭の中がヒートして混乱の極地に至りました。
 
 
 本書は伊藤計劃さんと円城塔さんの合作でありますが、その99%は円城さんの手によるものであり、これはもはや「円城塔」の著作と言ってよいかと思います。

 主人公は、あの「ジョン・H・ワトソン」。
世界一有名な(ぼくが勝手にそう思っている)私立探偵シャーロック・ホームズの助手に当たります。

 『屍者の帝国』は、ワトソン博士がロンドン大学を卒業してシャーロックに出会うまでを、大胆かつ緻密に練り上げて作られた物語です。
 
 
 「歴史改変もの」と呼ばれる本書ですが、実際の19世紀の世界情勢(日本も出てきます)に小説「シャーロック・ホームズ」のあの人たちが登場し(シャーロックは残念ながら出てきません)、さらには、『死者の帝国』骨子、「死んだ者の生き返り」の技術にはメアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』が取り入れられていて、ちょっとおなか一杯感は拭えません。
 
 
 ルナ教会が出てきいの、アララトが出てきいの、そういう宗教ネタだったり秘密結社ネタが好きな人には楽しめるのではなかろうかと思います(知識がなくてもとりあえずはどうにかなります。気になったらググって)。
 
 
 あと、大村益次郎が出てくるのには驚くともいます。暗殺されたはずの人がなぜか西南戦争まで生きているという。大久保さんは暗殺されたままでしたが。
 
 
 ぼくが一番気になったのは、本書のテーマと言える「意識」。
 一般には、人間のみが意識を持っていると言われています(個人的にどうのこうのはさておき)。
 
 『屍者の帝国』においても基本的には同じスタンスが採られます。「意識」があるからこそ人間のみが「屍者化」できるのであり、逆にそれ以外の生物は人間のような「意識」が存在しないからこそ「屍者」として復活できないのだと。
 
 しかし、ここで「ザ・ワン」なるフランケンシュタインの怪物は、一つの説を打ち立てます。人間の意識は、「菌株」なるものの合議制の結果であると。
 
 人間にも固有の意識のようなものはたしかにある。しかし、それは「菌株」たちの様々な駆け引き(菌株にも政党みたいに派閥があって、それぞれに主張がかみ合っていないことから引き起こされる意見の押し合い)の下に覆い隠されてしまい、結局、「人間の意識」なるものは存在しない、それは「菌株」によってあたかもあるように錯覚させられているだけ。
 

 ぼくにはこれが強烈に響きました。
 伊藤さんの二作『虐殺器官』と『ハーモニー』にもつながる要であり、そこでは「意識」とは人間の進化の産物である、と言っている。
 つまり、『ハーモニー』では「意識」を他の人間の機能と特別扱いする必要はないのだとしており、今回はそれを発展させて「意識」は人間の進化の途中で脳に住み着いた、人間以外のモノによる現象に過ぎないとしているのです。

 だからなんだ。それが飯の役に立つのか。なんて言われたら否定するしかありません。
 母に「哲学は面白い」って言ったときに「法学部なんだからもっと役に立つ法律を勉強しなさい」と言われたときぐらいショックだったりします(笑)。
 
 
 いや、ほんとに役に立ちませんね。特定の研究者だったりを除いては。
 だって、『虐殺器官』を読み直してから一度たりとも「意識とはね、こうこうこういうものでね」なんて話す機会なんてありませんし、ふつうに日々の生活を送る上ではただの悩みの種になるだけの、邪魔でしかなかったりしますし(笑)。
 趣味の問題と言ったらそれまでですが、古代のアリストテレス然りプラトン然り、「知識」という快楽を欲しがる欲求の1つだと思ってくれたらいいかなと思います。
 とりあえず、言わせてください。
 「あなたは面白いとは思いませんか」。
 
 
 ところで話ががらりと変わりますがネットを巡回すると、いろいろな感想を目にすることがあります。
 その中には、「理解が追い付かない」という感想も書かれていることもざらでは有りません。
 ぼくも正直言うと、わからないことだらけです(再読なのに)。
 秘密結社などの知識不足もそうだけれど、そもそもとして文章の表現が追いきれていない。
 でも、それこそ知識を収集し、一度置いて熟成させてからもう一度読もうと思っています。今年の12月の映画化までにはもう一度。
 
 
 最後にあと一言だけ。
 『屍者の帝国』はワトソン博士の従僕である、青年の『屍者』、フライデーの手記によるものです。フライデーがワトソン一行の旅に同行し、傍で書き留めていったもの集合体。
 そして、アーサー・コナン・ドイル自身による「シャーロック・ホームズ」シリーズは、助手の「ワトソン博士」がその記録人となっています(他の著者の物は知らないが)。
 この点も意識して書かれたのだろうなー、なんてニヤニヤしながら読んでください(笑)。
 
 
 「叶うのならば、この言葉が物質化して、あなたの残した物語に新たな生命をもたらしますように。
 (読んでくれて)ありがとう。」
                                                    P515「エピローグ」より
                  (カッコ内は筆者)

法条遥『忘却のレーテ』(新潮文庫nex)

 わたしの今までの物語を、忘れてしまう物語。
 昨日「おやすみ」と言った人にも、
 今日、目覚めれば「はじめまして」。




大学生の唯は両親を亡くした。それも、つい最近のこと。
父が役員を務め、母が寿退社した「オリンポス」という 製薬会社での式典に二人が参加したその帰りだった。
それも唯の目の前で、ゴムまりのようにトラックにはねられて。

茫然自失の中、葬式の後に父の知人だという男が来て唯に言った。
「きみのお父さんは会社のお金を横領していたんだ」
それは両親が唯に残した額よりもあまりにも多かった。
唯がそう言うと、男は電話を掛け、それから満面の笑みで唯に言った。
「役員会の決定で返済額が半分でいいことになったよ」
喜ぶ唯に、しかし、とさらにこう付け加えた。
「条件があるんだ。われわれの実験に参加してほしい」

そしていまわたしは、このすべてが真っ白な狭い部屋にいる。
人の記憶を忘却させる「レーテ」という薬の被験者として、他の5人と同じように。

わたしは1週間ここで過ごすのだ。
夜の12時には強制的に眠り薬を投与され、同時に「レーテ」も体の中を巡る。

その日の記憶を忘却するため。
次の日を新しく迎えるため。

でも、なぜか違和感が拭えない。なにか忘れている。いや、忘れることが実験の内容だから当然といえば当然だ。

そう、当然なのだけれど、やっぱりどこかおかしい。
直感、って言ったらそるまでだけど、それしかないとしか言えない。

動物としての本能なのか、人間としての理性に基づくそれなのかはわからないけれど。

その違和感が何に対する違和感なのかは、わたしには判断がつくことはない。




 とまあ、こんな感じの小説です。小説の作り自体は実験一日目、二日目といったふうに進んでいきます。まあ、それはよいでしょう。

 例によって今回も衝動買い。大学の授業後に行われる公務員講座の苦痛に耐えきれず、発狂する前にと本屋さんへ直行して買ったのでした。

 本書の帯には「二度読みせずにはいられない記憶喪失ミステリ」なんて大きなことを書いていますが、そんな大げさなものではないです。
 トリックのネタはすぐに気づきます。「ああ、もしかしたら...」となんとなく想像がついちゃうと思います。それもかなり序盤で。ぼくとしては宮部さんの「RPG」再来、なんてガックシしていたわけです。
 

でも、ですね、中二病をこじらせてしまったぼくとしては、「忘却のレーテ」なんてカッコイイ名前を見せられたらワクワクしてしまうわけで、そのワクワク感だけでいうならとてもよかったです。ああ、内容は本当にイマイチだとは思いますが。



 あとちょっとばかり追記ですが、これはなんというか、上に書いた通り、主人公は大学生の「唯」です。でも、本書は「唯」の物語ではありません。


 どういうことかというと、「唯」はただ「レーテ」という薬の効果を僕たち読者に見せつけるために選ばれたとりあえずの主人公に過ぎず、本書は「レーテ」もといそれの開発者「小野寺エリス」のための物語なのです。


ですから、まあ、上ですぐにばれるようなトリックを使ってますよと書きましたが、「レーテ」の効果をぼくたち読者に伝えるためにはそのようなトリックを使わざるをえず、そのためにとても分かりやすいネタにしたのではないかとも思うのでした。


 うーん、まあ、これは伊藤計劃さんが「セブン」や「ゲーム」の映画評について書いたときのことを思い出して、もしかしてこれもそうなんじゃね、ってぼくが半分(いや、8割がた)盲信的に考えたことですので、もし読まれた方で「それは違う」という方がいらっしゃれば指摘していただければ幸いです

辻村深月『サクラ咲く』

底抜けに明るすぎました。


小学生や中学生が読めばわりと楽しめるのかもしれませんが、曲がりなりにもそこを経験した者としては「つまらない」が正直な感想でした。(進研ゼミの中学生向けに書かれたから、「学校ってこんなにも楽しいものなんですよ」って書かないといけなかったのかもしれないけど)。


内容としては、朋彦やマチの内面の葛藤があっけないし、周囲の人たちの物わかりがよすぎますね。


というわけで、ぼくみたいに性格のひん曲がっている人(笑)は読むと、突っ込みたくなってしまう要素満載です。


でも、最後の短編に本書中の前二作の人々がさりげなく出てくるのはなんかとても嬉しかったです。

小説で区切られたその物語は"本"としては終わりなんだけれど、実際には人生はまだまだ続くんだよっていうのが感じられたので(そういう意味では、進研ゼミはここに綴じられた物語を毎年学年が上がるごとに掲載していくべきだったと思うな~。そんなだったら「うおおっ!やるじゃん!」って感動したわ)。

さて、最初に...

 かつて、伊藤計劃さんは自身のブログでこう書いた。

 「これを読んでくれている人を映画館へ誘導すること。それがこのコンテンツの目的だ。ぼくのなけなしのボキャブラリーを総動員して、その映画についての情報を修飾しまくり、映画館へいってもらう。僕の好きな映画を皆にも見てもらいたい、という単純な欲望を達成するためのことばたちだ。

 〈中略〉

 面白い映画を面白かった、という。

 このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。

 〈中略〉

 ぼくが好きな映画の感動をあなたにも分かってほしい。」

 ぼくがここでやろうとすることも同じことだ。まあ、映画か本かの違いはあるけれど。

 ぼくが好きな本に対する感動や感情をあなたにも伝えたい。あなたを少しでも本の世界へといざないたい。

 また、このブログは、筆不精でめんどくさがりなぼくとの戦いの日記でもある(笑)